長野 VS 松本長野県の成立
さて、『長野 VS 松本』の始まりは、『明治維新』当時の『明治新政府』の地域分けから始まります。

1.『明治維新』により、『徳川幕府』の領地を『新政府』が没収するにあたり、『信濃国』の領地を『伊那県』という新しい行政機構に統制させました。

2.しかし、その広大で分散した領地の不便さから明治3年、『伊那県』から『中野県』を分離させ、北東信の幕府領を担当させました。

3.翌4年、名称だけ『中野県』から『長野県』へ変更し、
 同年、廃藩置県により『松代県』(旧松代藩)、『須坂県』(須坂藩)、『飯山県』(飯山藩)、『岩村田県』(岩村田藩)、『小諸県』(小諸藩)、『上田県』(上田藩)は『長野県』に合併され、
 『松本県』(松本藩)、『飯田県』(飯田藩)、『高遠県』(高遠藩)、『高島県』(高島藩)は『伊那県』に合併され、『筑摩県』となりました。
(『長野県』(県庁は長野市)と『筑摩県』(県庁は現松本市(当時は筑摩郡松本)の2県が現在の『長野県』を分割統治することとなったわけです。)

4.明治9年『筑摩県』に含まれていた『飛騨高山』地方が分離して『岐阜県』に併合され、更に、『筑摩県』そのものも『長野県』と合併し、現在の『長野県』が誕生しました。

この時に、既に、「新『長野県』の県庁を『長野市』に置くか、『松本市』に置くか」で『長野 VS 松本』が始まっていますが、 その後も、『県庁』までの交通の不便さ等を理由に、『松本市』、『諏訪市』、『伊那市』を中心とする『中南信』地区の『分離運動』がずっと燻り続け、 第二次世界大戦後、『日本国憲法』と『地方自治法』に基づく新しい『地方制度』に移行したばかりの昭和23年(1948年)春の『県議会』で『中南信地区分離』が議題となりました。

当然,分離賛成派の中南信選出議員と反対派の東北信(長選出の議員との間で紛糾し、年度末から新年度当初にかけての議会は麻痺しました。
まあ、そういった歴史があるわけですが・・・、

>「県庁を取られた」

は、交通の便等を考えると、『松本市』にある方が便利なわけですし、
元々、旧『信濃国』の『国府』は、平安時代には現『上田市』に置かれ、その後、現『諏訪市』に移転、戦国時代以降は、現『松本市』と移転していますから、松本市民にとっては、『信濃国』=『長野県』の中心は『松本』という意識が強いのだと思います。
(出典:長野と松本の歴史



長野県の成立

長野藩があったようですが、

ありません。
善光寺宿を含む水内郡長野村(長野町になっていたかな?)周辺は藩領でも幕府直轄領(天領)でもなく,善光寺領でした。
結論を言えば,「長野藩」などというものが存在しなかったから,長野に県庁が置かれたのです。

はじめに,1871(明治4)年7月の「廃藩置県」ではじめて「県」が設置されたような誤解がなされているようですが,以前にも触れたとおり,「府」や「県」は1868(慶応4→明治元)年春の明治政府確立直後に,まずは旧幕府から没収した政府直轄地を管轄する地方官庁として閏4月以降に順次設置されました。したがって,廃藩置県までは旧大名(諸侯)が管轄する「藩」と政府直轄の「府・県」とが併存していました。

信濃国内に関しては,松代藩や松本藩以下の大名領を除き,国内に点在する旧幕府直轄領を管轄するために1868(慶応4)年8月2日に「伊那県」が設置され,(上)伊那郡飯島にあった幕府代官所が県庁とされました。69(明治2)年6月24日には三河国内の直轄領を管轄していた「三河県」(県庁所在地は宝飯郡赤坂)が伊那県に統合されましたが,70(明治3)年9月17日に信濃を南北に分割し,南信2郡(諏訪・伊那)・中信2郡(筑摩・安曇)と三河国内の直轄領を管轄する「伊那県」が存続する一方,北信4郡(更級・埴科・高井・水内)・東信2郡(佐久・小県)の直轄領については(下)高井郡中野の旧幕府代官所を県庁とする「中野県」が新設されました。藩政時代,北信の直轄領を管轄する代官所が中野にあったからです。中野の銘酒に天領誉」というのがありますが,それはこのことにちなむのですね。
繰り返しになりますが,この段階ではまだ東・北信には「松代藩」「須坂藩」「上田藩」「小諸藩」「岩村田藩」「竜岡藩」といった諸侯管轄地(藩)が存在していました。「中野県」が管轄するのは,それらの藩領を除いた東・北信地域内の旧幕府直轄領と善光寺や戸隠権現(戸隠神社)などの寺社領などをあわせた政府直轄地のみです(なお,「竜岡藩:大給[おぎゅう]松平氏1万6千石,藩庁所在地は現・南佐久郡佐久町田口」は71(明治4)年6月2日に廃止され,三河国内の旧領地は「伊那県」へ,佐久郡内の旧領地が「中野県」へ編入されています)。

ところが1871(明治4)年6月22日に中野にあった県庁が(上)水内郡長野に移転し,「長野県」と改称されました。
中野の県庁舎が焼失したのが直接の原因といわれているのですが,実際のところ,善光寺の門前町と北国街道の宿場町,さらに裾花川や犀川流域の山村地域を後背地とする在郷の市場町の諸機能を兼ね備えた長野が善光寺平の中心地としての発展性を備えていたことが大きな背景になっていたのだろうと思います。
廃藩置県によって「松代藩」以下の“藩”が廃止されたあと,同年11月の全国的な府県の統合・再編の結果,東・北信地域は従来から設置されていた「長野県」に統合されました。
なぜ上田や松代ではなくて長野なのかといえば,何よりもまず,すでに長野に県庁があったことが大きかったのだと思います。東・北信を管轄する県庁所在地としても適当なロケーションであると判断されたのでしょう。

一方,中・南信地域では廃藩置県ののち,この地域最大の都市・(東)筑摩郡松本に県庁を置く「松本藩」改め「松本県」が核となって11月にこの地域に,さらに飛騨国全域を加えた領域を管轄する「筑摩県」が設置されました。こちらの場合は,伊那谷の飯島に県庁を置く旧伊那県では飛騨を含む県域を管轄するのには不適当と判断されたのでしょう。とすれば,松本が最適地であることは論を待ちません。

1871(明治4)年11月の全国的な府県統合ののち,1876(明治8)年の4月から8月にかけて「第2次」の全国的府県統合が行われて,統合前の75から38へ府県の数が半減しています。この一環として8月21日に「筑摩県」が廃止されて飛騨全域は「岐阜県」へ,そして中・南信は同じ信濃国を管轄する「長野県」に編入されて現在に至ります。
このときになぜ松本でなく長野の県庁の方が存続したのかは,よくわかりません。東・北信だけならともかく,信州全体からすれば長野は誰の目にも北に偏りすぎているのがわかります。この点で,松本が県土の中心地として最もふさわしいのは明らかですよね。実際,古代の信濃国府は松本付近に置かれていました(上田付近に置かれていた時期もあるようで,国分寺・国分尼寺は上田にあります。一方,国内の神社を一ヶ所に集めた「総社(惣社)」は松本にあったようで,そのまま松本市内の地名になっています)。
けれども,“統一信州”の県庁は長野に置かれたのですね。明治政府が松本周辺で盛んであった民権運動を嫌ったからだ,という説もあります。あるいは,統合前の「長野県」と「筑摩県」とでは県政の運営のしかたに結構違いがあり,筑摩県の運営を政府が嫌った,というのもあります。

いずれにせよ,こうした経緯で成立した「長野県」ですから,長野と松本,旧長野県の東・北信と旧筑摩県の中・南信の間の対立感情は激しいものがあって,これが「長野県の百年」を一貫して続いています。松本への移庁運動から,中・南信の分県論まで,繰り返し繰り返し現実の政治問題として県議会で話題に上っているのですね。
そのピークが分県の実現寸前まで行った,地方自治法施行直後の1948(昭和23)年春の県議会でした。中・南信系の議員が退場しようとして議会が大荒れになったとき,傍聴者の誰かが歌いだした県民歌「信濃の国」に議場にいた全員が唱和して(全曲歌うととても長いです),これを境に分県論は有耶無耶になってしまった,という「伝説」があります。
「信濃の国」がほかの県に見られないほど深く長野県民に浸透していることが,このような地域対立感情を逆説的に証明している,といえるのかもしれません。
(出典:長野県の成立
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